
〔留萌市大字留萌村(「Mapion」の地図より)〕
傷めていた膝や体調が回復してきたので,夏休みに涼しい北海道にでも行こうかな,12月に廃止予定の留萌本線留萌〜増毛間に乗りに行こうかな……などと考えながら,留萌市の地図を見ていた。
留萌市は1947年の市制施行前は留[萠]町であり,JRの留萠駅は市制施行後も留萠駅のままだったため,市名と駅名が微妙に違ったままだった。結局は1997年に留萌駅に改定されちゃったことを思い出しながら地図を見ていたら,留萌駅の北側を流れる留萌川の対岸が留萌村になっていることに気づいた。
釧路市と釧路町が隣り合っているのと同じように,市町村レベルの留萌市と留萌村が隣り合っているのだろうと考えたのだが,地図をよく見ても両者の間に市町村の境界がない。留萌駅があるのは留萌市船場町2丁目,留萌川の対岸にあるのは留萌市(大字)留萌村だということがわかった。
町村合併で村が町や市と合併するときは,たとえばA市とB町・C村が合併して,A市大字B町・A市大字C町またはA市B町・A市C町のように村を町にするか,あるいはA市大字B・A市大字CまたはA市B・A市Cのように町や村を省くことが多い。※※市大字○○村または※※市○○村とするのは珍しい事例だと思う。
留萌市大字留萌村と同様に大字○○村があることで有名なのは稚内市である。

〔稚内市大字稚内村(「Mapion」の地図より)〕
稚内駅前にある稚内市役所の裏側(西側)の海岸段丘は稚内市稚内村である。稚内市では,一面のクマザサの中にある抜海駅一帯は稚内市(大字)抜海村だし,北海道最北端の宗谷岬は稚内市(大字)宗谷村,稚内空港付近は稚内市(大字)声問村となっている。
これらは,昭和2年に北海道一級町村制施行時に稚内村となったときの抜海村・声問村の区域と,1955年(昭和30年)に稚内市に編入した宗谷村の区域を,大字としてそのまま残したものである。ただし,市町村の変遷を見るだけでは,稚内市(元は稚内村・抜海村・声問村が一緒になった区域としての稚内村・稚内町のエリア)と,大字稚内村がどういう関係なのかはよくわからない。

〔稚内市大字声問村(「Mapion」の地図より)〕
大字(おおあざ)の町名をどうするのか,○○町にするのか,○○とするのか,あるいは○○村のまま残すのか,自治体の判断に任されているようである。とはいえ,○○村を大字として残す例は珍しい。
山口県には(部外者の私が)紛らわしいと感じる町名がある。
ひとつは下関市豊浦村と下関市豊浦町である。

〔下関市豊浦村(「Mapion」の地図より)〕
上図は山陽本線の長府駅の南側の豊浦高校付近の地図である。
長府黒門東町の長府庭園の西側,大唐櫃山(大唐楯山)の山麓が下関市大字豊浦村になっている。
長府は長門国の国分寺が置かれた国府で,府中と呼ばれたこともあり,長門国府から長府となった。また,日本書紀には穴門豊浦宮が置かれたという記述があることから,この地方は豊浦(とよら・とゆら)とも呼ばれたという。後述する豊浦町も含まれる豊浦郡(とようらぐん・とおらのこおり)の郡役所が置かれたのも長府である。
豊浦と呼ばれた長府が1911年(明治44年)に町制施行して長府町となり,1937年(昭和12年)に下関市に編入される。時期は不明だが,住居表示が実施されたときに,長府町地域は下関市長府○○町となった。そして,住居表示が実施されていない地域が下関市大字豊浦村として残ったようである。
ちなみに,地図上の豊浦高校も,読み方は「とよら」である。

〔下関市豊浦町(「Mapion」の地図より)〕
山陰本線小串駅付近の下関市豊浦町(とようらちょう)の地図である。豊浦町は2005年に下関市などと合併し,下関市豊浦町となっている。
昭和の大合併で複数の町村を合併して豊浦郡豊浦町になったところなので,豊浦町時代,既に大字があった。たとえば小串駅は豊浦郡豊浦町大字小串字石堂だった。その後,下関市と合併したときに「豊浦町」は大字よりもひとつレベルが上の町名となり,小串駅は下関市豊浦町大字小串字石堂となった。
同じ下関市であっても,豊浦町と大字がつく豊浦村との勘違いは生じないのかもしれないが,大字は省略することも多く,下関市豊浦町と下関市豊浦村が併存しているのは,紛らわしいことに違いはない。
市ではないが,山口県東南部にある熊毛郡平生町の場合もややこしい。山口県にありながら,町のWebサイトで「広島広域都市圏で新たな連携に取り組みます」と主張していることもややこしい感じがするのだが,それは置いといて……

〔山口県熊毛郡平生町(「Mapion」の地図より)〕
平生町役場や平生郵便局,平生町スポーツセンターがあるのは平生町平生町,平生町体育館やふれあいまちづくりセンターがあるのは平生町平生村である。町の中心部で平生町平生町と平生町平生村が入り組んでいるのでややこしい。
1889年(明治22年)の町村制の施行時に,平生村,竪ヶ浜村,平生町,宇佐木村の4町村によって平生村が発足。1903年(明治36年)に平生村が町制施行して平生町になった後,1955年(昭和30年)の昭和大合併で平生町が大野村,曽根村,佐賀村と合併し,新しい平生町となった。
町村制施行時に既に平生村と平生町があり,両者を区別するために大字平生町と大字平生村が残り続けているのだと思われる。
平生町の人口は約1万3千人。それほど大きくない町なので,地域を指すときには平生町,平生村,竪ヶ浜,曽根……と大字で呼べば済む。紛らわしいと感じるのは私のような部外者だけかもしれない。
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