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2010年8月16日

関東鉄道竜ヶ崎線が開業110年

 街中を行き来して110年 「竜鉄」の誕生日祝う(2010年8月15日 朝日新聞)

 龍ケ崎市内の3駅を結ぶ計4.5キロの関東鉄道のミニ路線「竜ケ崎線」(愛称・竜鉄)が14日、開業110年を迎えた。

 関東鉄道の「竜ヶ崎線」は,常磐線の佐貫駅と龍ケ崎市中心市街地の西端を結んでいる。途中駅がひとつだけの本当のミニ路線で,約30分間隔で1両編成のディーゼルカーが往復している。

 その竜ヶ崎線が,開業して110年。路線延長をすることもなく,廃止が噂されることもなく,鉄ちゃんの間で話題になることも少なく,地道に運行できていることは素晴らしいことだと思う。

 輸送実績を見ると,1990年代の後半から徐々に輸送人員が減少している。主要顧客である通学定期利用者が,少子化の影響で大きく減少しているのが主な原因だろう。それでも,まだまだ輸送密度はそこそこの数値を保っているように見え,地域の交通手段(主に常磐線へのアクセス)として定着しているものと思われる。

 手元の写真を探してみたら,最後に竜ヶ崎線を訪問したのは1998年。もう10年も以上も前のことだった。久しぶりに乗りに行って,まだ歩いたことのない龍ケ崎の中心市街地を歩いてみたいものだ。

1998年関東鉄道竜ヶ崎線
 常磐線佐貫駅に隣接した関東鉄道竜ヶ崎線の佐貫駅(1998年3月 FinePix 700で撮影)

1998年関東鉄道竜ヶ崎線
 終点の竜ヶ崎駅に到着(1998年3月 FinePix 700で撮影)

 市の名前は「龍ケ崎」で,駅名は「竜ヶ崎」。朝日新聞の記事の「竜ケ崎線」は厳密には間違い?
 そういえば,常磐線の佐貫駅は,龍ケ崎市とは別に佐貫町があるのかと思っていたが,龍ケ崎市内になっている。最近合併したのかと思って調べてみたが,佐貫町の個別な自治体は1889年4月の町村制施行前の佐貫村まで遡り,1889年4月に周辺の村と一緒に馴柴村となってから,1954年に龍ケ崎町に合併するまで馴柴村のままだったようだ。ちょっと意外な気がした。

1998年関東鉄道竜ヶ崎線
 竜ヶ崎駅にある車庫(1998年3月 FinePix 700で撮影)

各地の駅に居付いた犬
 竜ヶ崎駅の周辺を見た後は,すぐに鹿島鉄道に乗りに行くため佐貫に引き返してしまったのが,いま思うとちょっと残念。
 竜ヶ崎駅で印象に残ったのは,駅構内にいた犬。おとなしそうな犬で,ずーっと待合室に横になっていた。

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コメント

三日画師さんの故郷は福島県の三春と伺っておりますが、戦国武将・伊達政宗の正室・愛姫も三春出身(田村氏)だそうですね。その伊達政宗が開いた仙台藩の飛び地の一つが、この龍ヶ崎の町(石高1万石)です。

江戸時代の東日本沿岸の物流ルートは、石巻から那珂湊、銚子、潮来を経て利根川を遡り、この龍ヶ崎や近隣の布佐の町から陸路(水戸街道や行徳街道)へ、若しくは上流の関宿を回り江戸川水系の水路網にスイッチして江戸に至るルートが一大幹線を成していたそうです。龍ヶ崎の街は、当時、江戸市中に流通する米の大半を占めたと言われる「仙台米」輸送の中継点として、明治に至るまで非常に重要な役割を果たしていたとか。

毎年7月の末には、撞舞(つくまい)と呼ばれる奇祭が行われている事でも知られてますよ。
【参考】http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/DENTOUGEINOUSHUMAI

余談ですが、三春にいた田村氏は豊臣時代に一度改易されて消滅しますが、後に伊達家の肝いりで再興(領地は奥州・一関)し、江戸の屋敷があの『忠臣蔵』事件で浅野内匠頭が切腹して果てる舞台(現在の東京・西新橋交差点付近)となりました。

あと、江戸時代を通じてほぼ三春の領主だった秋田氏は、平安時代に奥州を支配していた安倍氏、その血縁でこれまた中世の奥州に覇を唱えた安東氏の更に末裔だったとか。三春って、奥州の覇者の歴史が凝縮された様な町だったのですねぇ。凄いです。

投稿: | 2010年8月19日 07時40分

投稿者名が落ちてました。すみません。

投稿: もりあき | 2010年8月19日 07時42分

 愛姫(めごひめ……ATOKが変換してくれない)は,三春の自慢のひとつです。その名の通り,めんごかった(可愛かった)らしいという話を聞くだけで嬉しくなります。まあ,平地の少ない小藩が生き残るには,いろいろ策略をめぐらす必要があったんでしょうね。

 龍ケ崎で水運というと,小貝川ですね。後年,野田と柏の間に利根運河が造られたほどの水運があったというのは,今からは想像もできない話です。

 ふと思いつきですが,小貝川の暴れ川っぷりを考えると,龍ケ崎の「龍」は小貝川のことかもしれませんね。

 岩手の一ノ関市との結びつきは,姉妹都市として現在も続いています。都市の規模はぜんぜん対等じゃないですけどね。

 秋田氏が安倍氏〜安東氏の末裔だったという話,面白いですね。泡沫的な小藩だったからそういうことがあり得たのかもしれません。
 以前帰省したときに,三春歴史民俗資料館で,「津軽安東氏と三春」というような展示をやっていて,とても面白く見た記憶があります(と言っても,忘却の流れは止められませんが)。

 戊辰戦争でも,三春藩は「寝返った」「三春狐」と,活躍どころか会津や二本松を貶めるような行動を取っていて,ぎりぎりまでジタバタしたような印象で,そういうことも含めて,我が故郷三春が私の成長の原点になっているのかな……と思っています。

投稿: 三日画師 | 2010年8月20日 00時32分

>龍ケ崎の「龍」は小貝川のことかも

まさに、その通りだと思います。中世どころか、江戸時代に利根川東遷事業(現在の埼玉県栗橋付近から南流して東京湾に流れていた利根川本流を銚子方面に付け替える事業)が完成するまで、龍ヶ崎より下流域は「香取海(かとりのうみ)」という内海でした。現在でも潮来市付近に「外浪逆浦」の地名が残る通り、外洋からの潮汐による水位の変化が激く、場所によっては流入する大きな河川(鬼怒川や小貝川)の水と上げ潮がぶつかり合い、時に激しい波を生じる船乗り泣かせの海だったようです。

規模は全然違いますが、南米ベネズエラを流れるオリノコ川がパリア湾を経てカリブ海に流れ込む地点は、トリニダード島を挟んで「Dragon's Mouth=竜の口」「Serpent's Mouth=蛇の口」と呼ばれています。大河の河口を竜の口に喩えるのは、洋の東西を問わない発想みたいです。

とは申せ、鹿島灘沖から犬吠埼を回り、房総半島沿岸から野島崎沖を経て東京湾に至る外洋航路は、寒流と暖流の潮目の海。常に大波と濃霧の危険が伴う名うての荒海です(今の世でも、たまに大型タンカーが沈没したりするほど)。近世の帆船による沿岸航海主体の航路では、大消費地・江戸を目前にリスクの大きい房総半島回りの外洋航海を敢えてするのは、相当な博打だったのでしょう。銚子から利根川となった水路を遡るルートが栄えたのには、こうした理由があったようです。

江戸時代もまだ早いうちから、そうした点に目をつけ、抜け目なく龍ヶ崎の地を拝領した伊達政宗の経済センスはたいしたものだと思います。幕府も幕府で、そうした正宗を警戒したのか、江戸と御三家の拠点・水戸を結ぶ街道をわざと龍ヶ崎の町から外して通すなど、けっこうな駆け引きとなっていたみたいで興味が尽きません。

また、江戸期を通じ、この海・陸を通した廻米交易ルートの利権を巡り、経路となる那珂湊や涸沼湖岸、潮来などの地で、仙台藩と水戸藩との間に丁々発止の諍いが続いていた様です。

話は変わりますが、豊臣政権時代に田村氏が改易された時、後任の大名家や伊達家に仕えるのをよしとしない田村家中の武士たちの間には、帰農して三春の地に留まる者が少なくなかったそうです(Wikipedia等参照)。

江戸時代、三春の地に秋田氏が据えられたのは、徳川の権威も伊達の名声も認めない旧田村家臣団を、歴史的な「奥州王者」の血筋でもって懐柔する意味合いがあったのかもしれませんね。

投稿: もりあき | 2010年8月20日 08時57分

 伊達政宗といえば,舟運に対する力の入れようが凄まじいですね。北上川の改修工事もそうですし,貞山堀の整備もそうですね。交易の重要さに気づいていたんでしょうね。

 江戸幕府によって水戸街道が整備されたときから,藤代−牛久ルートになって,龍ケ崎は街道から外れてるんですね。その後は常磐線も町を外れて通り,常磐線との間を竜ヶ崎線が結んで現在に至る……。
 正直なところ,完全に町が寂れてしまうことも考えられる状況ですが,一貫して人口は増加傾向にあるようです。人口増加の多くは佐貫駅周辺や郊外のニュータウンの開発によるものと思われますが,このような状況で寂れてしまわないのは,東京の持つ巨大なパワーがこのあたりまで及んでいるということでしょうね。

 三春に秋田氏が据えられたのは,徳川の権威も伊達の名声も認めない旧田村家臣団を,歴史的な「奥州王者」の血筋でもって懐柔する意味合い……ってのは非常に面白いお話です!

投稿: 三日画師 | 2010年8月20日 15時04分

朝の常磐線佐貫駅のラッシュの様子は、近隣の駅の中でも、混雑が特に際立っている感があります。駅全体がカーブの途中にあってホームが見渡しやすかったり、ホーム幅がそんなに広くない事も関係しているとは思いますが、やはり利用者が集中してるんでしょうね。

一日当り乗車人員が、15,017人。この数字は、隣の牛久駅とほぼ同等(15,333人)で、中電の始発駅であり、全てのフレッシュひたち号が停車する土浦駅(17,053人)にも迫る数字です。因みに、2駅東京寄りで、常磐快速電車(緑のライン)の始発駅・取手駅は30,662人となっています。

常磐線の取手駅以北は、小貝川流域や牛久沼沿岸の湿地帯、小野川や乙戸川流域の湿地帯など低湿地が多く、住宅開発に適した土地が意外と少ない沿線です。勢い、佐貫・牛久の両駅周辺に住宅開発が集中し、利用者がこの2駅に集まる傾向を生んでいるのでしょう。

関東鉄道竜ヶ崎線の成り立ちは、開業の時期も含めて、同じ常磐線沿線の流鉄(馬橋駅~流山駅)と非常に良く似ております。龍ヶ崎と流山、どちらも、利根川水系の舟運を礎とした交易や製造業(みりんや醤油)で発展した町。両鉄道ともに、江戸期を通じて、舟運の経済効果がいかに巨大なものであったかを物語る“産業遺産”と呼べるんじゃないでしょうか。

投稿: もりあき | 2010年8月21日 09時45分

 常磐線のラッシュは,柏付近から快速区間も千代田線区間も大変な混雑だとは噂には聞きますが,実際は中電の走る茨城県内まで通勤ラッシュ区間が広がっているんですね。

 一日当たり乗車人員で見れば,牛久,佐貫,土浦は,東海道本線の大磯7,546人/日,に二宮14,337人/日,国府津6,489人/日,横須賀線の北鎌倉8,518人/日,東逗子5,332人/日,田浦2,650人/日あたりの駅は上回っていて,まあ東京までの所要時間の違いは置いといて,なかなか利用者が多いですね。

 流山と龍ケ崎の共通点については,とても興味深いです。龍ケ崎には再訪してみたいし,流山は一度撮影した写真を紛失してしまうと言うお馬鹿なことをしているので,もう一度ちゃんと撮影に行ってみたいです。

 どちらの街も,もともと交易の集散地やみりんや醤油の生産地として発展したとはいえ,現在は郊外の住宅地がメインで,旧町内にはまだまだ元気だった頃の面影が残っていそうな気もします。

投稿: 三日画師 | 2010年8月22日 02時51分

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