カテゴリー「地図」の24件の記事

2018年2月17日

(このブログは「控え」であり,メインのブログではありません)

 ブログ記事の更新を長期間サボっていたら,Google検索などで“三日画師”を検索したときのランクが下がってしまったらしく,メインのブログ『写真撮っけど,さすけねがい?』よりも,名前を付けたこっちのブログのほうが上位に表示されてしまうようになった。

 以前は『写真撮っけど,さすけねがい?』を見てくれていた人が,検索結果上位にある『三日画師のかすかだり』を見て,

 「最近ブログの傾向を変えた?」
 「以前とは全然違ったブログになったね」

という反応をしてきたので,とりあえずメインブログへのリンクを冒頭に置くことにしてみた。

 私のメインブログ『写真撮っけど,さすけねがい?』は下記になります。

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http://mikkagashi.cocolog-nifty.com/

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2016年7月30日

留萌市留萌村……市の中に村がある

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〔留萌市大字留萌村(「Mapion」の地図より)〕

 傷めていた膝や体調が回復してきたので,夏休みに涼しい北海道にでも行こうかな,12月に廃止予定の留萌本線留萌〜増毛間に乗りに行こうかな……などと考えながら,留萌市の地図を見ていた。

 留萌市は1947年の市制施行前は留[萠]町であり,JRの留萠駅は市制施行後も留萠駅のままだったため,市名と駅名が微妙に違ったままだった。結局は1997年に留萌駅に改定されちゃったことを思い出しながら地図を見ていたら,留萌駅の北側を流れる留萌川の対岸が留萌村になっていることに気づいた。

 釧路市と釧路町が隣り合っているのと同じように,市町村レベルの留萌市と留萌村が隣り合っているのだろうと考えたのだが,地図をよく見ても両者の間に市町村の境界がない。留萌駅があるのは留萌市船場町2丁目,留萌川の対岸にあるのは留萌市(大字)留萌村だということがわかった。

 町村合併で村が町や市と合併するときは,たとえばA市とB町・C村が合併して,A市大字B町・A市大字C町またはA市B町・A市C町のように村を町にするか,あるいはA市大字B・A市大字CまたはA市B・A市Cのように町や村を省くことが多い。※※市大字○○村または※※市○○村とするのは珍しい事例だと思う。

 留萌市大字留萌村と同様に大字○○村があることで有名なのは稚内市である。

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〔稚内市大字稚内村(「Mapion」の地図より)〕

 稚内駅前にある稚内市役所の裏側(西側)の海岸段丘は稚内市稚内村である。稚内市では,一面のクマザサの中にある抜海駅一帯は稚内市(大字)抜海村だし,北海道最北端の宗谷岬は稚内市(大字)宗谷村,稚内空港付近は稚内市(大字)声問村となっている。

 これらは,昭和2年に北海道一級町村制施行時に稚内村となったときの抜海村・声問村の区域と,1955年(昭和30年)に稚内市に編入した宗谷村の区域を,大字としてそのまま残したものである。ただし,市町村の変遷を見るだけでは,稚内市(元は稚内村・抜海村・声問村が一緒になった区域としての稚内村・稚内町のエリア)と,大字稚内村がどういう関係なのかはよくわからない。


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〔稚内市大字声問村(「Mapion」の地図より)〕

 大字(おおあざ)の町名をどうするのか,○○町にするのか,○○とするのか,あるいは○○村のまま残すのか,自治体の判断に任されているようである。とはいえ,○○村を大字として残す例は珍しい。

 山口県には(部外者の私が)紛らわしいと感じる町名がある。
 ひとつは下関市豊浦村と下関市豊浦町である。


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〔下関市豊浦村(「Mapion」の地図より)〕

 上図は山陽本線の長府駅の南側の豊浦高校付近の地図である。
 長府黒門東町の長府庭園の西側,大唐櫃山(大唐楯山)の山麓が下関市大字豊浦村になっている。

 長府は長門国の国分寺が置かれた国府で,府中と呼ばれたこともあり,門国から長府となった。また,日本書紀には穴門豊浦宮が置かれたという記述があることから,この地方は豊浦(とよら・とゆら)とも呼ばれたという。後述する豊浦町も含まれる豊浦郡(とようらぐん・とおらのこおり)の郡役所が置かれたのも長府である。

 豊浦と呼ばれた長府が1911年(明治44年)に町制施行して長府町となり,1937年(昭和12年)に下関市に編入される。時期は不明だが,住居表示が実施されたときに,長府町地域は下関市長府○○町となった。そして,住居表示が実施されていない地域が下関市大字豊浦村として残ったようである。

 ちなみに,地図上の豊浦高校も,読み方は「とよら」である。

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〔下関市豊浦町(「Mapion」の地図より)〕

 山陰本線小串駅付近の下関市豊浦町(とようらちょう)の地図である。豊浦町は2005年に下関市などと合併し,下関市豊浦町となっている。

 昭和の大合併で複数の町村を合併して豊浦郡豊浦町になったところなので,豊浦町時代,既に大字があった。たとえば小串駅は豊浦郡豊浦町大字小串字石堂だった。その後,下関市と合併したときに「豊浦町」は大字よりもひとつレベルが上の町名となり,小串駅は下関市豊浦町大字小串字石堂となった。

 同じ下関市であっても,豊浦町と大字がつく豊浦村との勘違いは生じないのかもしれないが,大字は省略することも多く,下関市豊浦町と下関市豊浦村が併存しているのは,紛らわしいことに違いはない。

 市ではないが,山口県東南部にある熊毛郡平生町の場合もややこしい。山口県にありながら,町のWebサイトで「広島広域都市圏で新たな連携に取り組みます」と主張していることもややこしい感じがするのだが,それは置いといて……

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〔山口県熊毛郡平生町(「Mapion」の地図より)〕

 平生町役場や平生郵便局,平生町スポーツセンターがあるのは平生町平生町,平生町体育館やふれあいまちづくりセンターがあるのは平生町平生村である。町の中心部で平生町平生町と平生町平生村が入り組んでいるのでややこしい。

 1889年(明治22年)の町村制の施行時に,平生村,竪ヶ浜村,平生町,宇佐木村の4町村によって平生村が発足。1903年(明治36年)に平生村が町制施行して平生町になった後,1955年(昭和30年)の昭和大合併で平生町が大野村,曽根村,佐賀村と合併し,新しい平生町となった。

 町村制施行時に既に平生村と平生町があり,両者を区別するために大字平生町と大字平生村が残り続けているのだと思われる。

 平生町の人口は約1万3千人。それほど大きくない町なので,地域を指すときには平生町,平生村,竪ヶ浜,曽根……と大字で呼べば済む。紛らわしいと感じるのは私のような部外者だけかもしれない。

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2016年7月27日

横浜市都筑区川和町の鉄道忌避伝説

 横浜市都筑区川和町に鉄道忌避伝説があることを知った。

 川和には都筑郡の郡役所や郵便局があって栄えていたのに,鉄道が通ると町が衰退するとして横浜線に反対したため,横浜線は川和を迂回して鶴見川の対岸を通ることになり,横浜線の駅が作られた中山が栄えるようになったという話である。典型的な鉄道忌避伝説である。

 川和高校という神奈川県立の進学校があるから,川和という地区が県内にあることには気づいていたが,都筑区に川和町があるのを知ったのは,2008年に横浜市営地下鉄グリーンラインが開通して川和町駅が開業したときである。

 鉄道忌避伝説があるのは一般的には街道沿いの宿場町や城下町で,町が衰退してしまったために古くからの町並みが残っているところが多い。ところが地図を見る限りでは,川和町に古くからの町並みがあるようには思えない。

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〔『荏田』平成14年発行「今昔マップ on the web」より〕

 横浜市都筑区川和町付近の地図である。

 地図の中心から少し左側が川和町になっている。地図の左上から右下に流れるのが鶴見川,その南側を東西に走るのが横浜線,左下が中山駅である。
 鶴見川の左岸を通るのは鎌倉街道中ノ道(現在の神奈川県道12号横浜上麻生線),地図の右上から左下に通じ,佐江戸町で鎌倉街道中ノ道と直交するのが中世以前から続く古道の中原街道である。ちなみに,池部町の日本電気工場は,現在ららぽーと横浜とパークシティLaLa横浜になっている。パークシティLaLa横浜は,杭打ち工事で虚偽データが使われ,多くの杭が強固な地盤に届いていないことで建物が傾くという問題が発生した分譲マンションである。

 地図を詳細に見ると,川和町がある鶴見川の左岸,つまり横浜線が通っていない側は大規模な工場地帯になっているのがわかる。鎌倉街道中ノ道(神奈川県道12号横浜上麻生線)に沿って川和町〜佐江戸町〜池辺町と,小さな家屋の集積があるだけで,際だった集積は見られない。
 都筑郡の郡役所や郵便局があった川和の中心は,現在の横浜川和町郵便局から山王神社付近であるが,古くから町並みが発達していたようには見えない。

 現代の地図を見ても横浜線開業当時の様子はわからないので,「今昔マップ on the web」で明治39年測図(明治41年製版)の地図を見てみよう。八王子から横浜へ生糸を輸送するために敷かれた横浜線は1908年(明治41年)に開業しているため,横浜線開通直前の様子が見てとれるはずである。

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〔『小机』明治39年測図「今昔マップ on the web」より〕

 地図の切り取り方に多少の差異はあるが,ほぼ同じ場所の地図である。鶴見川の南側に,横浜線が建設途中の未成線として記されている。

 確かに都田村川和に横長楕円の郡役所のマークがある。しかし,郡役所の周囲に他の建物はなく,郡役所の裏側は木々が茂った山になっており,郡役所の前には一面の田んぼが広がっている。郡役所の北側,現在の川和町駅付近の川和中村に集落が見られるが,鎌倉街道沿いの都市的集落ではなく,樹木に囲まれた農村集落であることがわかる。

 むしろ,鎌倉街道中ノ道と中原街道が交差する佐江戸の集落のほうが,多少都市的な集落であるようにも見える。

 明治39年当時,川和,佐江戸,そして池邊(池辺)の集落は都田村に属していた。
 都田村は1889年(明治22年)の町村制施行により,川和村,佐江戸村,池辺村,東方村,折本村,大熊村,川向村および本郷村の一部が合併してできた村である。この地図ではわかりにくいが,都田村の村役場は川和ではなく池辺に置かれている。都筑郡にも,都田村にも特に大きな集落は見られず,そのような都田村の中で川和は特別な集落ではなかったことがわかる。

 むしろ,都筑郡の郡役所が1879年(明治12年)に川和村へ移転したことのほうが不思議に思える。都田村の中でさえ中心ではなかった川和(明治39年の時点では都田村川和)に,なぜ都筑郡の郡役所が移転したのだろうか。

 それには,当時の都筑郡全体の地図を見る必要があるだろう。

鉄道忌避伝説 横浜線
〔明治39年測図「今昔マップ on the web」より(クリックで拡大)〕

 上図は明治39年測図の都筑郡役所を中心にした地図である。茶色の点線で囲まれているのが都筑郡(の南半分),黄緑色の線が明治41年開通の横浜線(開業当時は「横浜鉄道」という私鉄)である。当時の横浜線沿線の大きな商業的集積である町田村原町田(現在の町田市)と田奈村長津田(大山街道・矢倉沢往還の長津田宿)も赤丸で囲んだ。

 1906年(明治39年)当時,都筑郡に大きな集落はなく,唯一の都市的集落は大山街道の長津田宿のある田奈村長津田であった(それに次ぐ集落は山内村荏田)。

 なぜ川和村に郡役所があったのか,明確な答えは見つからないが,地理的に都筑郡の中心に近かったこと,長津田が都筑郡の西の端だったこと,都筑郡を縦横に走る鎌倉街道中ノ道と中原街道の交点に近いことが郡役所としてふさわしいとの判断があったのではないだろうか。

 横浜線は八王子から横浜港へ生糸等を輸送する目的で敷かれた路線である。もちろん電化されておらず,蒸気機関車での列車運行であるから勾配の少ないルートが選ばれる。費用の掛かるトンネルや鉄橋をできるだけ避けるのも当然である。横浜〜八王子間にある大きめの集落は,長津田,原町田,橋本しかない。

 以上を照らし合わせると,横浜線のルートが鶴見川・恩田川の右岸に沿っているのは妥当であり,鉄橋を架けてまで鶴見川左岸の川和村に渡り,再び鉄橋を架けて右岸に戻る理由は見当たらない(鶴見川の鉄橋が2カ所,恩田川の鉄橋が1カ所必要になってしまう)。
 横浜市都筑区川和町の鉄道忌避伝説は,実際には根も葉もない噂であるという意味で,まさに「鉄道忌避伝説」だということになる。

 明治時代初期に開通した東海道線の成功によって,鉄道は便利で儲かるという認識が一般的になり,鉄道は忌避する対象から,むしろ誘致する対象になったと考えられている。全国各地に存在する鉄道忌避伝説ではあるが,明治後期から大正時代に開業した路線において鉄道を忌避した町があるとしたら,相当にまれなケースであろう。
 横浜線が開通したのは明治39年。既に鉄道の便利さが知れ渡っている時代であり,川和村において鉄道を忌避する動きが強かったとは思えない。

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2016年2月 7日

木津川市と笠置町との複雑すぎる境界

 京都府が公表した2015年国勢調査の速報値を読んだ。大阪への通勤・通学に便利な京都府南部の京都市,長岡京市,京田辺市,木津川市,大山崎町,精華町の4市2町だけが人口増加で,それ以外は人口が大きく減少。京都市内でも全11区のうち6区で人口減少,伏見区,北区,西京区は人口減少が大きい。

 人口減少率が最も大きかったのは笠置町の15.8%で,南山城村が13.8%,伊根町が12.4%,和束町が11.7%と続いた……と言うところまで読んで,府内でも人口が増加している木津川市と人口減少率が最悪の笠置町が隣り合っていることを思い出した。
 木津川市加茂町と笠置町は境界が接しているだけでなく,加茂駅と笠置駅は関西本線上の隣同士の駅である。
 どこでこのような差が出てしまったのだろうと思いながら,地図を広げてみた。

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〔地図は「Mapion」より〕

 木津川市と笠置町は京都府の南部にあり,地図の一番上の部分を流れている木津川は,右側の笠置町から左の木津川市方向に流れている。木津川に沿って関西本線が通っており,地図の右端に笠置駅がある。木津川市加茂町の加茂駅は地図の左端よりも画面半分ぐらい先にある。

 この地図を見て,真っ先に気付くのは,木津川市内東部にイカやタコの足のように複雑に延びる笠置町の飛び地である。地図をよく見る人ならば,全国に不思議な飛び地が存在していることは理解できると思うが,このように複雑な飛び地はとても珍しい。

 この木津川市加茂町と笠置町の境界の飛び地の周辺は,四ヶ村山と呼ばれる入会地で,4つの村の入会地(共有地)として,樹木を伐採したり,屋根を葺くカヤを採集したり,木の葉や草を集めて肥料にしていたりしたという。ここまでは全国どこにでもある状況だった。

 明治時代に市町村制が施行され,入会地は市町村に属すことになった。江戸時代中期から入会地の一部は私有地として認められていたため,4つの村の入会地はそれぞれ私有地を所有する者の居住地を基準に加茂と笠置に振り分けられた。それが複雑で奇妙な境界ができた原因である。

 複雑な境界部分をもう少し拡大した地図を表示してみる。

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〔地図は「Mapion」より〕

 複雑な形の境界線は木津川市加茂町と笠置町の間にだけ存在するのではなく,加茂町内の地区の地区の境界にも残っていることがわかる。
 いずれも,針葉樹や広葉樹の森に入り組んだ谷戸に谷戸田と段々畑が広がる様は,日本の農業の原点を見られそうな地域である。

 さて,そのような関係のある笠置町の笠置駅と木津川市加茂町の加茂駅は,関西本線の駅も隣同士である。しかし,国鉄時代は同じような位置づけの両駅だったが,国鉄の分割民営化で管轄がJR西日本となり,加茂駅までの関西本線が電化されて大阪近郊路線のアーバンネットワークの範囲に含まれ,隣の笠置駅は含まれずに関西本線が非電化ローカル線となったことから,その後の位置づけが大きく変わった。

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〔関西本線加茂駅〕

 加茂駅は大阪近郊路線アーバンネットワークのターミナル駅となっており,日中でも1時間あたり2本の(ラッシュ時には3本から4本)の大阪行き大和路快速(4〜8両編成)が発着する。加茂駅から大阪駅までの所要時間は1時間15分。首都圏のサラリーマンのイメージで言えば,便利な通勤圏である。

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〔関西本線笠置駅〕

 加茂駅から笠置駅,そして三重県亀山(JR東海)までの関西本線のJR西日本管理区間は非電化単線のまま放置されている。列車の本数は日中1時間あたり1本。2両編成のディーゼルカーが走る。
 かつては奈良方面への笠置駅発着の列車が設定されていたり,行楽期には急行列車や準急列車が臨時停車していたそうだが,現在は駅舎や跨線橋に栄華の香りを残すローカル駅である。

 京都府でも数少ない人口増加都市の木津川市加茂町と,京都府で最大の人口減少地帯である笠置町が並んでいて,鉄道の駅も一駅違い。まさに紙一重だ。運命の神様は無慈悲でいらっしゃる。

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2015年12月25日

八高線多摩川橋梁の牛群地形が消滅

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〔八高線多摩川橋梁の牛群地形(2004年撮影)〕

 八高線多摩川橋梁のすぐ下にある不思議な地形「牛群地形」について,今年2015年8月4日にブログ記事を書いた。そのときには,水の流れでかたちが変わりやすい牛群地形が変化していることはあっても,まさか牛群地形そのものがすぐになくなることはないだろうと,2004年に撮影した写真を使って地形を紹介していた。

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〔八高線多摩川橋梁下流の牛群地形(2004年撮影)〕

 今月の初めにTwitterで,多摩大橋付近で治水のために樹木の伐採と河川改修工事が行われているというツイートを読み,牛群地形と同様の土丹層も埋められてしまうらしいことがわかった。

 多摩大橋の少し下流側になるが,中央本線の多摩川橋梁と立日橋(多摩都市モノレール)の間にあった牛群地形同様の地形にも影響しそうだと感じ,ネットで地図や航空写真を広げてみた。

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〔立日橋を渡る多摩モノレールから見た中央線多摩川橋梁。中間付近に牛群地形のようなものが見られた〕

 前回のブログ記事でも,

 2004年の時点でも,1980年頃に見た凹凸地形よりもだいぶ侵食が進んでいるようだった。それから10年以上が過ぎ,Googleマップの航空写真で見るかぎり,牛群地形はますます小さくなっているように見える。砂利の採取や多摩川橋梁のコンクリート護岸の影響で偶然生まれた儚い地形が見られるのは,そう長くないことかもしれない。

と書いているように,50年100年続く地形ではないとは思っていたが,あらためてGoogleの航空写真を見て驚いた。8月の時点でのGoogleマップ航空写真には写っていた八高線多摩川橋梁のすぐ下流の牛群地形が,きれいに消失していたからだ。

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〔八高線多摩川橋梁。赤丸部分が2004年に牛群地形を撮影した場所〕

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〔八高線多摩川橋梁の拡大〕

 牛群地形がほぼ完全になくなっている。重機が入った跡が見えるので,人為的に消し去った可能性もある。
 1979年に東京エリアのミニ周遊券で東北から上京してきて,最初に大宮から川越線〜八高線と乗り継いだときに,車窓からこの牛群地形(当時は「牛群地形」という名称も知らなかった)を見て驚き,ずっと記憶に残っていた思い入れのある風景だったので,ちょっと寂しい。

 地理院地図(電子国土Web)には,過去の空中写真を表示する機能があるので,八高線多摩川橋梁付近の空中写真を年代順に表示してみた。

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1979

1984

1988

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地理院地図(電子国土Web)より

 1974年頃は北側の東京都昭島市側に多かった牛群地形が,徐々に南の八王子市側に移っていく様子が見てとれる。
 川の中にあるから,水の流れによって削られて珍しいかたちになって表出し,しかしすぐに浸食されてかたちを変え,しかも水害を防ぐためには保存することもできない。本当にはかない風景だった。

 八高線多摩川橋梁の牛群地形の変化に気付くきっかけとなった,中央本線多摩川橋梁と立日橋の間の川の流れの変化も,年代順に表示してみる。

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地理院地図(電子国土Web)より

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2015年12月22日

川崎駅は河原だった? 自由通路工事が難航

 川崎駅は河原だった? 地中の玉石で改良工事に遅れ(2015/12/17 日経コンストラクション)

 川崎市とJR東日本が共同で進めているJR川崎駅の改良工事の工期が、地中で見つかった大量の玉石の影響で7カ月程度延びる見通しとなった。現場の地下25m付近に埋まっている直径150〜300mm程度の玉石が、基礎杭の施工の障害になっている。川崎市が12月9日に明らかにした。

 現場には、北口自由通路や人工地盤などを支えるために、43本の基礎杭を施工する。川崎市市街地整備推進課によると14年夏ごろから、北口自由通路の施工予定位置付近など主に北側のエリアで、河原にあるような丸みを帯びた玉石が大量に出現し、杭打ち機の排泥管(管径200mm)が詰まるなどのトラブルが生じ始めた。

 川崎駅から北に1kmも離れていない場所に多摩川が流れていることから、川崎市では「駅の敷地の一部が、かつては多摩川かその支流の河原だったのではないか」(市街地整備推進課)と推定している。

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〔川崎駅の北口自由通路工事はバスの後ろに写っている乗換跨線橋(現在撤去済み)付近に設置される予定〕

 JR川崎駅では,既存の東西自由通路の混雑緩和,駅周辺の回遊性の向上のために,2013年から北口自由通路と新たな改札口(北口)の整備を進めている。
 北口自由通路は川崎駅の東京寄りに設けられ,ホーム上に設置した人工地盤の上に広い北改札コンコースを設けて既存の東西自由通路とを結ぶことになる。コンコース横にはJR系の商業施設も作られる。

 さて,工事現場の地下25m付近には直径15〜30cmの玉石が大量に埋まっているという。
 河口近くの多摩川にそんなに大きな石が転がってくるかという気もしたが,千年万年に一度の洪水ならばそれは想像もできないたいへんな流れになるだろうし,悠久の時の流れは石を丸くするのだろう。とりあえず明治39年測図の地形図を見てみよう。

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 多摩川の蛇行の跡が明確で,旧河道はしばらくは三日月湖になっていたものと思われる。このあたりの土地は多摩川の氾濫原で,大規模な洪水があるたびに流路が変わったり(人工的に流路を変えたところもあるだろう),地形が変わる。川崎駅付近は河原どころか多摩川そのものだったと言えよう。

 川崎市の起源でもある旧東海道の川崎宿の町並みが砂子〜小土呂橋で曲がっているのは,当時の多摩川の自然堤防に沿って川崎宿が形成されたからとも言えそうだ。

 かつての多摩川の置き土産によって,2017年の夏に予定されていた北口自由通路の供用は2018年3月に,中央北改札口の開業も2017年7月にずれ込むらしい。

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〔常に混雑する現在の川崎駅東西自由通路〕

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2015年12月14日

鉄道林より中学校からの景観が大事な村

 鉄道林が学校の眺望遮る JRに伐採要望(2015年11月18日 河北新報)

 山形県戸沢村の戸沢中(生徒125人)で、防風雪のためJR(旧国鉄)が線路沿いに植えたスギの鉄道林が半世紀以上たって大木となり、校舎、校庭からの自慢の眺望を遮っている。村は3年越しでJRに伐採を求めているが見通しは立っていない。

 戸沢中は敷地南側斜面の下にJR陸羽西線が走り、その奥に最上川が流れる。高台にあるため眺めが良く、校庭側の眼下に川の流れや対岸の山並み、南西には遠く月山も一望できた。旧校歌には「学びの庭に月の山」「最上川流れゆくなり」とある。
 一帯の約1キロ区間に鉄道林のスギが植えられたのは70年前ごろからで、戸沢中付近は約50年前という。現在地で1971年に開校した当時、若木だったスギは高さ15メートル以上に成長。今ではうっそうとした林の壁となって景観を損ねている。

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〔後方のスギは中学校の新校舎より高く、視界を遮る。手前では再来春に併設される小学校の基礎工事が進む(河北新報)〕

 開いた口がふさがらなかった。山形県最上郡戸沢村の戸沢中学校から月山が見えなくなったから鉄道林を伐採してほしいと,JR東日本に村長や教育長らが要望したのだという。村民の9割以上が要望書に署名しているらしい。ローカル線沿線の自治体や住民が,鉄道にまったく関心がないことがわかる。鉄道路線に存廃問題が生じてからじゃないと,鉄道が正常に運行されていることのありがたさに気付かないのだろう。

 さて,この記事を読んで,戸沢村の戸沢中学校周辺の地図を開いたのだが,いろいろ疑問点が湧いてくる。

 まず,最初の写真に写っている戸沢中学校の新校舎の位置についての疑問である。Googleマップの航空写真で戸沢中学校を表示してみる。

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 戸沢村立戸沢中学校の校舎の南側にあるグラウンドで基礎工事が行われているのがわかる。これが写真に載っている新校舎だと思われる。
 その南側にあるのが陸羽西線(奥の細道最上川ライン)の鉄道林だ。
 現在は中学校が新校舎に移り,旧校舎を取り壊して,その跡地では再来春に併設される小学校の基礎工事が進んでいるのだろう。

 戸沢中学校の旧校舎と鉄道林の間には広い校庭が存在したため,校舎からの視界は開けていたはずだ。校舎を鉄道林のそばに移設すれば,校舎からの視界が鉄道林に遮られるようになるのは当然である。旧校歌に「学びの庭に月の山」と歌われた月山が見えなければ困るのであれば,なぜ鉄道林のすぐ横に校舎を移設したのだろうか。


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〔1976年、3階建て旧校舎から見た校庭での雪遊びの様子。鉄道林はまだ低く、最上川越しに里山が一望できた(河北新報)〕

 旧校舎の3階から見た校庭の写真である。まず,鉄道林が低かった頃でも,「最上川流れゆくなり」と歌われた最上川は校庭からは見えなかったことがわかる。

 そもそも,校歌に山や川が歌われていても,学校からその山や川が見えないことはよくあることだ。見えないからといって,その視界を遮る木やビル,川の堤防を撤去してほしいと思ったりしないのが普通である。

 それでは,戸沢中学校旧校歌で「学びの庭に月の山」と歌われた月山はどのように見えるのだろうか。国土地理院の地形図を見ると,戸沢村から月山が見える場所は意外に少なそうだ。実際,戸沢村にとって月山がシンボルになるのであれば,戸沢村のWebサイトには村から見える月山の写真が掲載されていても不思議ではないが,月山の写真は一枚も見つけることができなかった。

 山形県を代表する山,月山は標高が1984m。湯殿山,羽黒山とともに出羽三山のひとつで,山岳信仰の山として知られる。
 標高1984mと高い山だが,戸沢中学校からは24kmも離れており,間近にそびえるという感じではないはずだ。戸沢中学校は海抜62mのところにあるため,計算すると月山の頂上は4.58°の仰角で見えることになる。頂上を見上げるというほどの角度ではない。

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〔赤丸が戸沢中学校。南西側に青丸で示す里山が並ぶ〕

 地理院地図において戸沢中学校から月山のある南西方向には,上図の青丸で示す里山が並んで見えることがわかる。それぞれの里山のピークは,戸沢中学校から見て左側から,標高211m,246.5m,200m,160m,151.9m,150m,175.9m,152mとなる(上の地図の一番右の山,戸沢中学校からは一番左に見える211mの山より,その手前の167mの山のほうが高く見えるかもしれない)。

 たかだか200m前後の山だが,戸沢中学校からの距離は1.8km程度と近くにある。遠くにある高い山よりも,近くにある低い山のほうが高く見えることはよくある。
 静岡県の沼津市は富士山のすぐ近くにあるが,沼津市のすぐ北側には愛鷹山という標高1187.5mの山が立ちはだかるため,沼津市からは富士山がよく見えなかったり,見えても山頂がチラッと見える程度になる。それゆえ,愛鷹山は「富士隠し」とも呼ばれる。

 新聞記事や戸沢村の言うことを信じないわけではないが,戸沢中学校の南西側にある標高200m前後の山が「月山隠し」になり,戸沢中学校からはもともと月山が見えない可能性がある。

 それでは,1.8km離れたところに標高何メートルの山があると月山よりも高く見えるのだろうか。本来なら,カシミール3Dのようなソフトを使って確認すれば良いのだろうが,残念ながら私はMac使いなのでWindows用のカシミール3Dは使えない。とりあえず手計算で見積もってみる。

 海抜62mの戸沢中学校から月山の頂上を見たときの仰角は4.58°と計算済みだ。1800[m]の距離にある h [m]の山の仰角が4.58°になるのは,

 tan(4.58°) = ( h - 62 ) / 1800 から h = 206.2[m] となる。
 
 戸沢中学校の南西側1.8kmにある206.2mの山は,月山と同じ高さに見える。山頂に高さ10mの木が生えていたとすると,200mより低くても月山より高く見えることになる。

 なんとも微妙な高さとなった。月山がどの方向に見えるかを,もう少し正確に把握しなければ,戸沢中学校から月山が見えるかどうかがわからない。

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〔戸沢中学校から月山が見える方向〕

 地理院地図に戸沢中学校と月山を結ぶ線を引いてみた。赤丸が戸沢中学校,青丸が月山を隠しそうな里山になる。160mと151.9mの里山の間の標高130m弱のところに,月山はちゃんと見えるようだ。
 また,戸沢中学校と月山を結ぶラインには,13km先に標高934mの剣崎山の頂上もある。これも「月山隠し」になりそうだが,剣崎山の仰角を計算すると3.84°になるので,月山の4.58°より小さい。月山の山頂はかろうじて見ることができそうだ。

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〔戸沢中学校から見える月山のイメージ(由比から見える富士山)〕

 戸沢中学校からは,最上川の対岸にある里山と同じぐらいの高さではあるが,月山がちゃんと見えることがわかった。そびえるように見えるわけではないが,信仰の山でもあり,それが見えることの村民の意義を推し量ることは難しい。

 校庭の広さが100mあったとすると,
 tan(4.58°) = x / 100 から,x = 8.0 [m]
となり,鉄道林が校庭に生えていたとしても,8m以下の高さなら校庭の端から月山の頂上が見えることになる。
 陸羽東線は校庭よりも10数メートル低いところを通っているため,鉄道林が15メートル以上あったとしても,校舎が鉄道林から100m程度離れていれば,月山は見え続けていただろう。

 戸沢村が鉄道林より校舎から見える月山のほうが重要だと考えるのであれば,なぜ鉄道林の近くに中学校の校舎を移設したのだろうか?
 さらにその北側に建築中の小学校の校舎は,中学校の校舎のすぐ横に造られているため,鉄道林を伐採したとしても小学校の校舎から中学校の校舎が邪魔になって月山は見えない。それでも良かったのか? 村民(の9割以上)にとって月山が見えることは,鉄道林の伐採をJRに要望するほどまで重要なものなのであれば,校舎の移設計画立案・設計段階で,月山の見え方を考慮すべきだったのではないだろうか。

 蛇足になるが,戸沢中学校の旧校歌の3番の歌詞には,「雲光る鳥海の峯」と山形県の最高峰である鳥海山(標高2236m)も歌われている。月山とは逆に,戸沢中学校の北北西側に鳥海山はそびえているが,中学校の県道をはさんだ北側には海抜92mのこんもりとした起伏があり,うっそうと茂る木々のために中学校から鳥海山は見えないと思われる。
 仮に,鉄道林伐採費用,そして代替となる防風雪柵の設置費用を戸沢村が全額負担して,鉄道林を撤去したとして,もともと見えない鳥海山の眺望はどうするつもりだろうか?

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〔戸沢村の陸羽東線古口駅前から月山方向を見るが,駅のすぐ後ろにある標高86.8mの山と木々が邪魔になって月山は見えない〕

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〔古口駅の近くの角川から月山の方向を見る(月山は見えない or 写らない〕

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 戸沢村名物の最上川舟下り。戸沢村の中心である古口は最上川舟運で栄えたところ。

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2015年8月 4日

八高線多摩川橋梁下流の牛群地形

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 八高線多摩川橋梁のすぐ下流に不思議な地形がある。それは牛の列が何列も並んでいるように見えることから,「牛群地形」と名付けられているらしい。

 1980年頃だったか,学生時代に八高線の車内から見たその風景が忘れられずにいたのだが,本格的に調べることもなく,また今のようにネットを検索すればある程度の情報が見つかる時代ではなかったので,そのままになっていた。
 八高線に新しい電車が投入されることになり,電化されてからずっと走り続けていた103系電車がそろそろ引退しそうだということで,2004年2月に牛群地形と合わせて撮影に行った。

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 場所は八高線の小宮駅〜拝島駅間の多摩川橋梁のすぐ下流である。八高線の多摩川橋梁は終戦直後の1945年に橋の中央部で列車が正面衝突し,客車が川に転落した八高線列車正面衝突事故で知られ,牛群地形よりもむしろ,当時のさびた車輪が川の中州に残っていることで有名だった(現在は引き上げられて河原の公園に設置されているらしい)。
 多摩川左岸の昭島市側ではアキシマクジラの化石が発見されたことから,河川敷は多摩川緑地くじら運動公園として整備されている。

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 写真ではわかりにくいが,岩が浸食されたものではなく,泥層と砂層の中間というか,粘土質というか,足で強く蹴るとどんどん削れる程度の柔らかさなので,大雨のたびに姿形を変えているものと思われる。

 2004年の時点でも,1980年頃に見た凹凸地形よりもだいぶ侵食が進んでいるようだった。それから10年以上が過ぎ,Googleマップの航空写真で見るかぎり,牛群地形はますます小さくなっているように見える。砂利の採取や多摩川橋梁のコンクリート護岸の影響で偶然生まれた儚い地形が見られるのは,そう長くないことかもしれない。

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2015年6月21日

JR姫路−御着駅間の新駅の名称について

 新駅名アンケ、最多は「白鷺」案…「官兵衛」も(2015年6月20日 読売新聞)

 来春に開業するJR姫路―御着間の新駅の名称について、兵庫県姫路市がアンケート結果を公表した。

 「白鷺」「が122票で最も多く、上位10位の中には「姫路白鷺」「白鷺の里(郷)」「播磨白鷺」が入り、平成の大修理を終えた白鷺城と称される姫路城への愛着と関心の高さがうかがえる結果となった。アンケートは3月16日〜5月25日にはがきとメールで実施。市内を中心に北海道や九州から計957票の応募があった。

 2位は現在仮称として使われている「東姫路」(60票)、3位は「姫路白鷺」(42票)だった。駅東側に流れる市川にちなみ、6位に「姫路市川」(34票)、8位に「播磨市川」(19票)もランクインした。

 11位以下にはユニークな名前が並ぶ。「リバーサイド姫路」「イースト姫路」などの“カタカナ系”や、昨年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」のブームを受けた「官兵衛」や「如水」も登場。3月に亡くなった市出身の落語家桂米朝さんの名を冠した「米朝」という案もあった。

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 こういうアンケートは新駅を盛り上げるためのイベントのひとつだ。
 新幹線開業時の新列車名のアンケートなどと同じで,結果はどうでもいい……とは言わないが,一般的にはろくな結果にならないことが多い(この姫路市のアンケート結果はかなりまともなほうだとは思う)。
 新駅付近が黒田官兵衛ゆかりの地だったり,関連する施設があってそれで町を売り出していくのならいざ知らず,「官兵衛」や「如水」がまともに考えた結果だとは思えない。軽いノリである。

 1位となった「白鷺」についても,姫路市民が白鷺城に愛着を持っていることはわかるが,10年後・20年後に白鷺駅という名称が定着したとしても,駅の位置を考慮すれば僭称のそしりを免れない。

 姫路城(白鷺城)の最寄り駅はJR姫路駅・山陽姫路駅や播但線の京口駅であり,新駅(航空写真の赤丸)で降りて姫路城を訪ねる人はいない。姫路城ほどの有名観光地であれば,そこから遠く離れていてもそれを名乗ることは容認されるだろうが,あくまでそこが最寄り駅だった場合のみであろう。たとえば,篠山市中心部の最寄り駅「篠山口駅」や草津温泉の最寄り駅「長野原草津口駅」等である。

 隣の御着駅は,播磨国分寺および国分尼寺が設けられた場所で,現在でも江戸時代に建立された牛堂山国分寺がある。御国野町国分寺・御国野町御着という地名があり,そこから「御着」という駅名がつけられている。歴史が感じられて,とてもいい駅名だと思う。「播磨国分寺駅」「御国野町国分寺駅(少し長い)」となっていても違和感は少なかったに違いない。

 新駅の場所は姫路市市之郷(いちのごう)。西側には市之郷一丁目から三丁目があり,姫路市市之郷住宅が駅前に建つ。駅前からは少し西に離れるが,姫路警察署は市之郷地区にある。ものづくり大学校やすこやかセンターなどのキャスティ21地区として公共ゾーンが設けられる予定があり,強みになりそうだ。

 姫路市日出町一丁目から三丁目も駅のすぐ北側に接しており,県営姫路日出住宅1号棟もある。市川の河川敷には日ノ出緑地がある。

 新駅から山陽新幹線のガードをくぐった南側は阿保地区となる。阿保地区は阿保神社や宇賀神社などがあり,古来からの歴史が感じられる町だが,姫路市による阿保土地区画整理事業が行われようとしている(or 既に始まっている)。姫路市がどのぐらいの力を入れて阿保土地区画整理事業を行うのかが,ポイントとなりそうだ。

 新駅のすぐ横を流れる「市川」は,国府が置かれた姫路市本町付近(本町遺跡がある)に立った市場に由来する川なので,候補になり得る名称だと思うが,残念ながら上流側に昭和の大合併によって「市川町」が誕生しており,新しく駅名にするにはちょっと紛らわしすぎる。

 と言うわけで,私が考えた新駅名は,「市之郷」「姫路日出(既存の日の出駅や日出〈ひじ〉駅との重複を避けるため)」,2番人気だった「東姫路」そして「阿保」のいずれか。さてどうなるだろう。

 ところで,山陽本線の新駅付近の地図を見ていて,航空写真がモザイク状になって,うまく表示されない場所がある。新駅予定地の南側の阿保地区である。

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 特に何か表示をオーバーレイしているわけでもないのに,正方形の形にマスクされているように見える。姫路駅付近には何カ所かこのような場所がある。何が原因なのだろう?

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2015年6月13日

倉敷市の直交しない斜め格子の街路

 ゴールデンウィークに西へふらふらと放浪した。倉敷市玉島の町並みが素晴らしかったのだが,そのときに倉敷市水島の地図を見ていて,面白いものを見つけた。

倉敷市福田の斜め格子の街路(Google航空写真)

 倉敷市水島の東にある倉敷市福田町のGoogleマップ航空写真である。
 一目見てわかるように,街路が直交しておらず,斜め格子になっている。もちろん,Googleマップで“ビューを傾斜”させたわけではない。実際に斜め格子になっているのである。

 同じ場所を国土地理院の地理院地図で表示してみる。

倉敷市福田の斜め格子の街路(地理院地図)

 見事な斜めっぷりである。
 人間の感覚はいい加減なところがあるので,ここを車で走っても違和感は感じないかもしれない。その場で見れば,交差点は直交しているように感じるのではないだろうか。

 しかし,倉敷市福田町からさらに東の倉敷市茶屋町の茶屋町駅東部では,車で走っていると方向感覚が麻痺するかもしれない。

茶屋町駅東部の斜め格子(Google航空写真)

茶屋町駅東部の斜め格子(地理院地図)

 倉敷市の茶屋町駅の東側では,直交しない斜め格子の地域同士が,それぞれ傾いた状態で隣接している。これだけ斜めになっていると,交差点を数回曲がると自分がどっちの方角を向いているのか確信が持てなくなるはずだ。

 どちらの地域も,現在水田が多いことからわかるように,もともとは一面の水田だったところだ。なぜこのような斜め格子になってしまったのだろう。水田として使うにしても,斜めなのは使い勝手が悪いように思う。あれこれググってみたが,詳しい情報を見つけることができなかった。

 1945〜1950年の航空写真でも,やはり斜め格子になっている。

茶屋町駅東部の斜め格子(1945年航空写真)

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